「未来は知らん顔さ、自分でつくっていく」

 最近は難しいことがあり過ぎて、どうにも手に追いきれない。自分一人ではもう抱えきれなくて、しばらく手放すことにしました。ごめんなさい。

 

 4月になって、周りの環境ががらりと変わっていって、やっぱり別れがあって、また出会いがあった。人数で言えば差し引きゼロだけれど、気持ちの面では、やっぱりマイナスが大きすぎて。寄る辺ないままに立ち続ける力が、今の自分にはなかったようです。自分一人でどうにか立っているように思っていたけれど、実際はそんなことはなくて、それと気付かず周りにしっかり支えられていた様子。よく言ったもので「後悔先に立たず」「無くしてから、大切さに気付く」、その通りだなあと、つくづく実感させられます。

 

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 立ち行かなくなったひとつの理由は、自分の臨床感が揺らいでしまったから。これまでおぼろげながらにあったものを、見失ってしまったと、そう思ってしまったから。疑問を抱いてしまった。

 院生時代は大きな流れは、恐らくユング派で。就職してからは、精神分析系で。人の心理を、深いところを見つめるという意味では、一貫してきたように思う。それが、私が心理学に惹かれる所以で、きっと、見極めたいものでもあったから。

 思い悩む人に寄り添って、その思い悩む心とはどういったもので、その人の抱える問題のその意味と、意義と、理由と。そういったものを見つめていきたいと、思ってきた。そこに答えや解決という、分かりやすいゴールはなかったけれど、それでも行き着く何かがあるはずと思っていた。ゴールにたどり着くことや問題が解決されることも大切だけど、それ以上に、それらを巡って思いに耽ること、いろいろな気持ちや出来事を辿ることに意味があるのだと思っていた。

 だけれども、要求される『どうすればいいんですか』という問いに、答えなければと思った。答えられなければ、関係は途絶えてしまうと。求められるものに、応えたかった。言葉を返すのは、ある意味、簡単なように思えた。

 思い返せば、そこでもう、何かが、途絶えてしまっていたのかもしれない。続けるほど、さらさらと、流れていくだけのように思えた。沈むこともなく、かといって潜ることもできず。水面を、流れに任せて漂っていくだけで。これじゃあ、関係が途絶えてしまうのも仕方がないな。今更だけど。本当に。思い返せば、そういうことばかり。後悔するにも、どこから悔いればいいのかわからなくなる。

 求められるものに、応えられるだけの力をつけないといけない。それは、時間を経るごとに、少しずつ、少しずつ、身につくものかと思っていた。そうやって行ければ良いと、そう思ってもいた。けれど、今、ここで、目の前には困っている人がいて。どうすればよかったのだろうと、答えを探す自分がいる。

 冬を超えたあたりから、周囲は精神分析から認知行動のほうに、その主流を移していった。ついていくつもりは、無かった。理論に照らし合わせて、そして「分かってしまう」ことが、いやだと思った。私にとって、ひとの心は、「わからないもの」であってほしい。それを「分かろうとする」からこそ、意味があるのだと思っていた。でも答えを求められる、困っていて、解決策を希求している人がいる。問題が何かを明らかにして、答えを求めないと、解を出さないといけない。そんなプレッシャーがあった。教えてもらった認知行動の理論は、とても、分かりやすかった。分かりやすさに、違和感を覚えてしまった。思考して解を導き出せてしまう。でも、こころは?気持ちは? 理論で解決できる問題と、きっとそうでないものがあると思う。私は、後者を大切にしたい。そう思った。そう思う、思っている。けれど、求められるのは。

 考えても、考えても、答えが出ない。馬鹿だな、ここに至ってもなお、自分でまた答え探しをしている。けれど、何かを見つけないと、戻っていけない。

 だから、時間をもらった。しばらくの時間。考えて、考えて。たくさんの思いと、様々な出来事を辿るだけの時間を。「分かる」ことよりも、「分かろうとする」ことが大事なら、私は、私自身のことも分かろうとしなければ。何もわからない人間に、自分をさらけ出せるような奇特なひとはいない。それならば、私がせめて、自分が何者であるかをしっかりと見定めないと。浅いところも、深いところも。そうしてやっと、人の流れに沿うことができる。自分が何者かを知らなければ、きっとできっこない。

 そのための、大切な時間だ。

 

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 友人につられて、言葉を書き連ねてみたけれど。やっぱり、言葉にするというのは大切だなと、感じた。気付かせてくれたことに、感謝しないと。

 その友人は、きっと相当な覚悟を持って、遠くの地に行ってしまった。大学生時代から、彼女のことを思うと、「頑張ろう」という気になる。とても優しくて懐の深い彼女だから、どんな私であろうと、受け入れてくれるのかもしれない。でも、そんな彼女がそばに居るからこそ、私は、頑張りたいと思う。彼女の友人として恥じないように。

 

「明日は、あなたを燃やす炎に向き合う心が欲しいよ。もしも会えた時は、誇れるように。」

 テレビの中じゃないけれど。画面の向こう側のあなたへ。私のスーパースター。

 

公私混合あるいは隔絶

ツイッターの呟きはどこまで言って良いのか微妙すぎで難しい。

フォローして貰えるのも、有難いけど。でも、聞かれたくないことも見られたくない部分もある。

だからって態々別のアカウントでって言うのも、もう億劫で。

どうでもいいかと思って呟いては、後で思い直して削除したりしてる。

数が表示されるから、フォーロするもされるのも、それをやめるのも何か心苦しい。

ツイッターのフォローが関係のつなぎ目って訳じゃないだろう って、そう思いつつ。でも、やっぱり、フォローを外されたら良い気持ちはしないし。ああ、嫌われたのかもなって、相手に思わせること、相手がそう思っただろうと自分が思うこと、とか色々勘ぐってやるのも疲れてしまう。

公私混合したくないな。

公にしても良い部分と、そうでないところは、分けておきたい。

関係性も隔絶しておきたい。

職場の知り合いがプライベートでお友達って、それはそれで構いはしないけど。

それで何か、好きになったり嫌いになったりって、ごちゃごちゃしたくない。

シゾってんなあと思う。

 

 

 

お互いに同じくらいの興味で探り探り付き合っていくのは楽しい。けど、自分の興味がある程度満たされて、相手からその上更に何か求められると駄目になる。何をそんなに要求されているのかと疑ってしまって、多分拒絶したり逃げ出してしまう、多分。皆で満遍なく気持ち良く過ごせたら良いのにな。

嫌じゃないと思いたいけど、何かもうどっかで拒否してるのも分かってしまっている。仲良く、のレベルが少し違っているみたいで、正直距離を測りかねている。嫌いじゃないと思いたい。嫌いにはなりたくないけどな。

いやいや、嫌いってわけじゃないな。別に、そんなに関心はない。ただ思った以上に近付いてこられて、面喰ってるだけ。その人に対しては、取り立てて特別な感情もない気がする。距離さえ保てれば何ともないような。分からん。もう全部億劫だわ。

365日くらい

 自分が成りたいものとか、目指したいものが、必ずしも周りから求められるものではないんだろうな、とようやく気が付き始めた。これまでは、周りから求められるものと自分の目指すものとがちゃんと合致していたから、たぶん迷わずにやって来れた。だけど、それが食い違った時には、どうればいいんだろうと思う。求められるものを提供できるようになるのか、それとも。

 

 今日というのか、昨日というのか、その日でもって365日が過ぎたようで。長かったようで、過ぎてみれば一瞬だったようでもある。一日は長いのに、一年はあっという間だったかな。365日というと、長いようでもあるけど、実際そこまで長くもない気もする。その間には、そこそこ色んな出来事があって、それなりに考えたり、つらつらと思ったりもしながら過ごしてきたようで。良くもなく、悪くはなく。評価するならそんな感じかな。そんな感じだと良いな。

 

 彼の偉いひとは、「生き残るのは、変化できるものである」と言ったらしい。自分を変化させて、その環境に適応できることが自分の命を繋げて、すなわち生き残るということらしい。きっと、本格的に生物学的に命に関わるなら、それはもう環境に適合していくしかないと思う。だって、そうでなければ文字通り死んでしまうだけだから。環境に適応して適合することが「進化」なら、今の自分はどうなんだろうと。何だか腑に落ちないような、納得のいかない嫌な感じがする。

 今の環境に適応するように変化することが「進化」なら、私はきっとこの一年間で進化してきたんだろうなと思う。出来なかったことも、多少は出来るようになった。結局出来ないことも、遥かにたくさんあるんだけども。けど、それより何より長年目指していたものに到達して、恐らくは、目指すべきものに一歩は近付いたはずだから。進化というか、一歩進んだように感じられる。

 なのに、何だか腑に落ちないものが残っている感じがする。適応しようと変化していくことが進化なら、その進化のためには、きっと何処かしらを、自分の中の何かしらを切り捨てて他のところを伸ばさなきゃいけないんじゃないか、と思う。全部が同じように伸びていくわけじゃなくって、何処かが進化して、多分どこかが退化する。退化するのは、自分にとって要らないところ。進化して適応する自分にとって、要らないところだったはず。だから、それは切り捨てられた。

 きっと、この一年で進化したり、適応したり、そういう風に変わったんだろうと思う。だけど、自分の中のどこかが、確実に退化してしまった気がしている。去年よりも、自分の中の何か大事だった部分が、要らないものとして切り捨てられてしまったような気がする。去年よりも、一昨年よりも、その前よりも、きっと進化してる所はあって、その時に必要なものを精一杯伸ばしているんだと思うんだけど。なのに、何か大事だったものを退化させてしまったような気がする。分からないけど。全然、まだわからないけど。

 適応しなければ、変化しなければ生き残れない。そうして自分が大事にしたかったものを切り捨てて生き延びることに、どれだけ意味があるのか。それはもちろん、お金を稼いで、社会の中に適応して、大人とか社会人とか、そうやって一人前に生きていくためには、変化も適応も進化もすごく大事なことなんだろうと思う。だけど、と言いたくなるのは、やっぱり何か捨てきれないものを抱えてるからだろうか。

 自分の求めるもの、成りたいもの、そういったものとは違っているものになっていくとして、そうやってこの環境の中に適応していくことにどんな意味があるのか。社会的な意味じゃなく、もっと、ごくごく個人的な意味だとか、意義として。そうしてまでこの、今の環境に適応していく必要があるのか、別の環境とか、もっと他の世界では、どうなんだろう、とか。自分の成りたいものが果たしてこの世界で、あるいはこの環境での進化の先にあるのだろうかと、少し疑問というか、些細な疑念を抱かずにはおれないような、そんな気がする。

 

 かと言って、きっと何を言ったってこの世界の中で生きていくんだろうと思っているし、できればそうでありたいとも思っている。そしてもうしばらくの内は、今の環境から大きく外れることもしないで生きていくんだろうとも思っている。些細な疑念や疑問は、たぶん切り捨てられてしまう。あるいは、奥底の方に大事に大事に抱え込んでしまっておこう。その内に、何か天変地異が起こったりして、世界も環境も大きくガラッと様変わりするかもしれないし。

 その時は、またその時で。

 抽象的というか、比喩表現が多過ぎて何が何やら。

 改めて整理できるときも、その内に来るだろうと思って。今日のところはこれで良いや。 祝、一年記念。

「まじめな女の子には魅力がないから、あたしはまじめになりたくないわ」

世間一般的なモラルだとか基準だとかそういう理性的な判断ではなく、恥も外聞も関係なく自分のやろうと思ったことをやってしまえるというのは物凄く魅力的にうつるんだけど。それを世間では厨二病だと笑うんだろうか。思慮が浅くて衝動的で完全に社会不適応かもしれないけど。

 

そういうことをして「人と違う俺かっけー」とかそんな下らないことが言いたいんじゃなくて。悪への憧れとも違っていて。悪だとか人と違うだとかそういうことではなく、ただ人の目を気にして無難に安全に順応して生きるよりは、多少の無茶をしても自分の選んだことをちゃんとやってける、とか。

 

その選んだ道が他人と全く同じに世間一般でいう無難で安全なものであったとしても、それが理性的に整えられた表面的なものでさえなければ、それすら魅力的であると思う。ぐちゃぐちゃしてきた。

 

また今度、時間かけて考え直そう。

アネモネが好き。