365日くらい

 自分が成りたいものとか、目指したいものが、必ずしも周りから求められるものではないんだろうな、とようやく気が付き始めた。これまでは、周りから求められるものと自分の目指すものとがちゃんと合致していたから、たぶん迷わずにやって来れた。だけど、それが食い違った時には、どうればいいんだろうと思う。求められるものを提供できるようになるのか、それとも。

 

 今日というのか、昨日というのか、その日でもって365日が過ぎたようで。長かったようで、過ぎてみれば一瞬だったようでもある。一日は長いのに、一年はあっという間だったかな。365日というと、長いようでもあるけど、実際そこまで長くもない気もする。その間には、そこそこ色んな出来事があって、それなりに考えたり、つらつらと思ったりもしながら過ごしてきたようで。良くもなく、悪くはなく。評価するならそんな感じかな。そんな感じだと良いな。

 

 彼の偉いひとは、「生き残るのは、変化できるものである」と言ったらしい。自分を変化させて、その環境に適応できることが自分の命を繋げて、すなわち生き残るということらしい。きっと、本格的に生物学的に命に関わるなら、それはもう環境に適合していくしかないと思う。だって、そうでなければ文字通り死んでしまうだけだから。環境に適応して適合することが「進化」なら、今の自分はどうなんだろうと。何だか腑に落ちないような、納得のいかない嫌な感じがする。

 今の環境に適応するように変化することが「進化」なら、私はきっとこの一年間で進化してきたんだろうなと思う。出来なかったことも、多少は出来るようになった。結局出来ないことも、遥かにたくさんあるんだけども。けど、それより何より長年目指していたものに到達して、恐らくは、目指すべきものに一歩は近付いたはずだから。進化というか、一歩進んだように感じられる。

 なのに、何だか腑に落ちないものが残っている感じがする。適応しようと変化していくことが進化なら、その進化のためには、きっと何処かしらを、自分の中の何かしらを切り捨てて他のところを伸ばさなきゃいけないんじゃないか、と思う。全部が同じように伸びていくわけじゃなくって、何処かが進化して、多分どこかが退化する。退化するのは、自分にとって要らないところ。進化して適応する自分にとって、要らないところだったはず。だから、それは切り捨てられた。

 きっと、この一年で進化したり、適応したり、そういう風に変わったんだろうと思う。だけど、自分の中のどこかが、確実に退化してしまった気がしている。去年よりも、自分の中の何か大事だった部分が、要らないものとして切り捨てられてしまったような気がする。去年よりも、一昨年よりも、その前よりも、きっと進化してる所はあって、その時に必要なものを精一杯伸ばしているんだと思うんだけど。なのに、何か大事だったものを退化させてしまったような気がする。分からないけど。全然、まだわからないけど。

 適応しなければ、変化しなければ生き残れない。そうして自分が大事にしたかったものを切り捨てて生き延びることに、どれだけ意味があるのか。それはもちろん、お金を稼いで、社会の中に適応して、大人とか社会人とか、そうやって一人前に生きていくためには、変化も適応も進化もすごく大事なことなんだろうと思う。だけど、と言いたくなるのは、やっぱり何か捨てきれないものを抱えてるからだろうか。

 自分の求めるもの、成りたいもの、そういったものとは違っているものになっていくとして、そうやってこの環境の中に適応していくことにどんな意味があるのか。社会的な意味じゃなく、もっと、ごくごく個人的な意味だとか、意義として。そうしてまでこの、今の環境に適応していく必要があるのか、別の環境とか、もっと他の世界では、どうなんだろう、とか。自分の成りたいものが果たしてこの世界で、あるいはこの環境での進化の先にあるのだろうかと、少し疑問というか、些細な疑念を抱かずにはおれないような、そんな気がする。

 

 かと言って、きっと何を言ったってこの世界の中で生きていくんだろうと思っているし、できればそうでありたいとも思っている。そしてもうしばらくの内は、今の環境から大きく外れることもしないで生きていくんだろうとも思っている。些細な疑念や疑問は、たぶん切り捨てられてしまう。あるいは、奥底の方に大事に大事に抱え込んでしまっておこう。その内に、何か天変地異が起こったりして、世界も環境も大きくガラッと様変わりするかもしれないし。

 その時は、またその時で。

 抽象的というか、比喩表現が多過ぎて何が何やら。

 改めて整理できるときも、その内に来るだろうと思って。今日のところはこれで良いや。 祝、一年記念。